月刊「えこふぁーむ・にゅーす」から抜粋

第72号(1998.5)徒食の人
何億年の遺産である天然鉱物資源を百年あまりで使いつくすことにより成り立っている現代消費文明は、環境破壊を地球規模でおこない、化学物質の濫造、遺伝子操作などによっても生態系を攪乱し、未来をも飲み込もうとしている。これらの科学技術文明は、不労徒食の輩により考え出された、悪魔の知恵といってもよいのである。
 そんなものは捨てて、実のなる樹を植えようではないか。土を耕し、種を蒔こうではないか。誰もがそうやって生きるべきなのである。

第74号(1998.7)耕すことの意味
農耕を中心とした自給生活こそが、搾取のない平等な社会を実現するということである。当時よりさらに分業化が進行している現代は、ますます人間疎外の甚だしい時代である。産業としての農に未来の見えない今こそ、自給的な農について見直すべきではないだろうか。

第76号(1998.9)聖書の神とエコロジー
作物に害虫がついたくらいで殺虫剤をまくようなことはできない。虫にもいくらかの分け前を与えなければならないし、殺虫剤をまかなくても天敵がいれば、ちゃんとバランスをとってくれるのに、殺虫剤は天敵をいなくしてしまう。もし殺虫剤をまかないで害虫が増えすぎたときには、栽培方法自体が自然に逆らっていたと反省するだけである。そんなわけで、今日もわが菜園にはモンシロチョウが乱舞し、ブドウ棚にはクモの巣がいっぱい、ヒヨドリの巣まである始末。でも、この農園ではたくさんの生命が輝いている。

第79号(1998.12)21世紀の北海道と農業
日本中でも不景気だと騒いで、どうやったら皆が金を使うようになるかなどと、国もマスコミも商品券配布だの消費税率を下げろだの何やら知恵を搾っているようだが、根本的な間違いに気づいていない。不景気とは、必要のないものを買わずに、あるものを大切に使うことなのだから、こんなに正しいことはない。限られた資源を有効に使い、環境をこれ以上破壊しないことが求められている現代において、景気をよくする必要なんか、まるっきりないのである。雇用を守ることは必要かもしれないが、必要のない仕事を温存しておくことも、決して望ましいことではないだろう。
 必要なことは、経済の復興でも、景気の回復でもないのである。真の意味で豊かな生活を送るためには、今までとは別の価値観が必要だ。近代以降、経済、物質、効率、競争といったものが重視され、それが今日の混迷を招いた。これからは、いのち、こころ、安心、共生といったものが、前のものに優先されねばならないであろう。そのような価値観の転換を図るためには、今の不景気は大変よいことだとさえ思える。
農家1戸当たりの経営面積はかつての3倍の15ha以上になっている。一方で、本州では40年来、農家1戸当たりの経営面積はほぼ1haのまま変わっていない。日本の農業を大きく変えてきた農業基本法の選択的規模拡大路線というものが、なぜか北海道においてのみ実現してきたのである。
農家を豊かにすることを目標とした農業基本法通りに事が運んだ北海道で、農家が豊かにならなかったということは、何を意味するのであろうか。効率を追求して規模拡大するというのは、いわば工業的発想であって、自然相手の農業には必ずしも合致しない。特に、日本のような高温多湿な気象条件下における農業や、環境保全型の有機農業のような場合、いかに手をかけるかが重要であり、規模の拡大が単純には生産性の向上につながらない。農業人口が減ることにより豊かになることができるのは、決して農家ではなく、大量の労働者を確保し、また安い農産物により労働者の賃金を安く抑えることもできる資本家なのである。それに、北海道のように農家が大規模になっても、すべての農作業が機械でこなせるわけではないし、人間の労働には限度があるわけで、かつての地主と小作人のような関係が、また新たに生まれつつあることにも、非常な危惧を覚えるのである。アメリカの大規模農法は、機械化によるだけでなく、かつては黒人奴隷、現在ではメキシコ人の安い労働力なしには成り立ち得ないことを知るべきである。農業基本法以前、戦後農地開放直後の、自給中心の農家、1町ばかりの田畑に、牛か馬が一頭いて、庭にはにわとりが数羽いたという時代こそ、最も豊かな時代だったのかもしれない。

身土不二という言葉があるが、身体と環境は切っても切れない関係にあるということで、住んでいる地域でとれた旬の物を食べることが、健康に最もよいのである。また、資源やエネルギーの節約のためにも、そうすべきである。外来のものを食べることを完全に否定すべきではないが、それが主になるのは異常なことである。海外に車や電気製品を売りまくり、米以外の食糧の大半を輸入にたよるようなことは、長続きすることではない。世界的に食糧が過剰から欠乏の時代へ突入しつつある現在、食糧はできる限り地域内での自給を目指すべきだし、そのように求められることになるだろう。産業としてではなく、いのちの糧を生産するための農業が行なわれるようにならねば、人類社会に未来はない。

第81号(1999.2)今こそ鎖国を!
当時世界で最も人口の多い都市であった江戸が、ほとんどゴミを出さない世界に誇りうるリサイクル都市であったことが、再評価されてきている。糞尿垂れ流しで悪臭を放っていたという中世ヨーロッパの都市と違い、下肥はちゃんと近郊農家に売買され利用されたし、灰屋などというリサイクル業者があり、薪炭を燃やした後に残る灰までが、肥料、酒造、紙漉、染物、陶器など様々な用途に利用されていたのである。このようなリサイクル体制が破壊され、無駄遣いとゴミに悩まされるようになったのは、明治維新後に欧米列強の真似をして資源や労働力を海外に求めるようになってからということだろう。

第86号(1999.7)遺伝子操作と世界支配
日本では、味噌も醤油も豆腐も納豆も植物油も、輸入穀物で肥育されている国産の牛肉も豚肉も鶏肉も牛乳も鶏卵も、ほとんど遺伝子組換え食品になってしまったということである。実質的同等性という訳のわからぬごまかしで厚生省に安全宣言をされ輸入が認められたが(エイズでは謝罪した、あの管氏の時だ)、正確な安全性など何十年先の日本人がどのような健康状態になっているかを確かめるまでわからないのだ。かつて、何の疑問もなく毛シラミを殺すために進駐軍にDDTを頭から真っ白になるまでぶっかけられた日本人は、その後アメリカで、その強い発ガン性などの毒性と容易に分解されない性質が明らかになって使用が禁止されて30年以上たった現在も、その血液中からは世界中で最も高い濃度のDDTを検出されるのである。厚生省の安全宣言など、全くナンセンスである。

遺伝子組換えの一番の問題点は、それが環境中に放出されたら、永久に回収不能なことである。

除草剤耐性遺伝子も、もうすでに作物と近縁の雑草に自然界で移動してしまったことが確認されている。除草剤耐性を獲得した雑草が、すでに現れているのである。恐ろしいのは、ターミネーター遺伝子つまり自殺遺伝子が、天然の植物に移行することである。
 雑草とは、決して単に作物の敵ではない。有機農業をしていればよくわかる。それは、有機質として最高の肥料になるし、化学肥料では決して不可能な土壌の物理性を高める効果に優れる。害虫や病気の巣になるといって、除草剤を使うことを指導機関では勧めるけれど、実際には天敵の住み処になっている場合の方が多い。害虫にとって作物よりおいしい雑草もあり、その場合には作物につく害虫密度は下がる。だから、無農薬で作物を栽培する場合、絶対に雑草は欠かせない。私は経験上、そう断言して良いと思っている。

自然交配と、有機農業で十分ではないか。だからこそ今、遺伝子組換えを拒否するためには、日本において有機農業における自給体制を確立するしかないのである。

第92号(2000.1)資本主義に未来はない
「農業には、単なる商品生産だけでなく多面的な価値があり、自由競争だけに委ねることはできない。」
60年代にベトナム戦争反対や黒人の公民権運動などから生まれた若者中心のカウンターカルチャーも、結局は体制に取り込まれてしまい、アメリカでも日本でも、今や若者ほど体制に対して無関心で享楽主義的である。
 しかし世界では、自由貿易により先進国と途上国の、いわゆる南北格差はさらに拡大している。アメリカ合衆国内部でも、個人の貧富の差はますます増大し、4000万人が貧困状態にあるといい、高層ビルの谷間にホームレスがあふれている。日本でも、貧富の差は増大傾向で、一億総中流はもはや虚像となりつつある。

誰かを切り捨てなければ生き延びられないような社会になるくらいならば、経済成長などしない方がましだ。また、国栄えて山河滅びるよりも、国が滅びても豊かな自然が残った方が間違いなく人々は幸せに暮らせる。
 経済発展は、物質的な豊かさ、生活の便利さなどを与えてくれはしたが、一方で深刻な環境破壊、成人病や凶悪犯罪など、多くのマイナス面をももたらした。金利というものによって右肩上がりの経済発展が不可欠な資本主義に代わり、永続的な経済システムが生まれなければ、未来はない。

資本主義とは、お金という虚構の力で、他人の労働と天然の資源を搾取することに他ならず、現代社会の様々な危機は、まさに資本主義が招いたものである。これからは、競争ではなく共生、搾取ではなく自立ということが基本の社会を築かなければならない。もう現在の経済システムでは限界である。

もちろん、お金は便利なものであり、それを完全に否定し、すべての人に農村での労働を強制した、カンボジアの旧ポルポト政権のような社会は、理想の社会とはほど遠いアンチ・ユートピアであろう。問題は、お金の遣い方であって、お金自体に罪はない。

危険な添加物や農薬は、食品が生命のためのものでなく、利益を生む商品とされる時に使用されるものだ。これらを追放するためには、資本主義を超える経済の確立が求められるし、生産者と消費者との間にお金のやりとりだけでない関係を築く必要がある。

第96号(2000.5)農地は誰のものか?
つくづく農業は、経済の論理でやってはならないと思う。経営の合理化とか、省力化ということは工業的発想なのである。生命を育てる農業は、子育てと同じだと考えるべきではないか。子どもを育てるのに、元を取るために投資するとか、そんな考え方でやって成功するはずはない。必要なことは愛情であり、育てているつもりが親も子どもに育てられるのである。作物も愛情をもって育て、消費者においしく食べてもらうことを喜びとすれば、農業も捨てたものではない。今の農家は、「何を作ってももうからない。土地さえ買ってくれる人がいたらいつでもやめたい。」なんて、ぼやいてばかりいるから、だめなんである。国の言うことや、農協の言うことをきいて、良かったためしなんてないのに、いつまでもお上をたよろうとする根性がだめなんである。一方で、生存競争で勝ち残ろうなんて、一人だけ生き延びようなんて根性もいただけない。
 農業は、ビジネスとしてでなく、命の糧を得るための暮らしの基本として、あるべきものだと思う。

第108号(2001.5)有機農業と農民芸術(『余市文芸』 第26号に投稿)
市場の規格に合ったものを安定的に生産するためには、農薬は必要不可欠である。多くの農家は、定められた基準を守って農薬を使用すれば、安全だと信じている。しかし、それは大きな間違いだ。現在禁止されている農薬の多くが、過去には安全だと言って使用されていた。現在日本で使用されている農薬の中にも、すでにアメリカなどで発ガン性などを理由に使用が禁止されているものがある。それらが日本で禁止されるのは、時間の問題だ。エイズの時の厚生省もそうだが、危険だと分かっているものを禁止するのに、日本の役所は時間がかかり過ぎる。国民の安全よりも、在庫を抱える製薬会社の利益の方を優先しているのかと勘繰りたくもなる。
 国の言う安全という言葉ほど、信ずるに値しないものはない。全ての合成農薬は、どんなに微量でも生態系を狂わせ、人間の健康に悪影響を与えている。生命は、経済に優先するべきである。どんなに豊かになっても、生命を失っては何の意味もない。有機農業以外の非永続的農業は、いずれ廃れなければならないのであり、さもなければ、人類の方が滅びることになるのである。
 もちろん、農家の経済が成り立たなくては、消費者の生命も保障されない。農薬を使わない有機農業が、経済的に成り立つ仕組みが必要である。それは、現代の市場流通では非常に困難だ。大量生産、大量流通の仕組みが、地場少量生産に適した有機農産物の流通を疎外している。有機農業を実践する農家は、一般の市場流通をあきらめ、直接理解のある消費者と結びつくことによって初めて、経営的に成り立つ。
 このような現実の中、有機農業を実践する農家は余りにも少ない。特に余市・仁木のような果樹栽培地域は、農薬の恩恵を最大限に受けており、両町合わせても、無農薬で栽培する果樹農家は片手に満たない。彼らは栽培上や経営上の困難と闘うだけでなく、周囲の農家の無理解とも闘うことを強いられる。そこまでして無農薬を貫くことには、非常に勇気(有機?)が必要である。
 さて、私は本州のワイン会社勤めを辞め、学生時代からの夢であった有機農業を始めて九年目。肝心のワインブドウだけは無農薬が実現できずにいるが、消費者に直接販売しているブドウを始めとする果実、野菜は、すべて無農薬で有機栽培している。このようなことができるのは、ある意味では新規就農者ならではの強みである。従来の農家ができなかった思い切った実践を試みていると思うし、消費者とのつながりは就農以前からの大きな財産である。

第128号(2003.1)安全な食品はどこに?
安全な食品を扱っている流通業者なども、全国組織から個人経営の小さな店までありますが、私の知る限り全くごまかしのないという組織は、ほとんどないと言ってよいです。もちろん良心的な流通業者も大切にしたいのですが、本当によいものだけを扱って商売が成り立つことは、限りなく不可能に近いと思われます。それよりは、やはり面倒でも生産者から、直接仕入れることが最も確実であり、価格的にも安く手に入るベストな方法だと思います。もちろん、安いといっても不当に高くないという意味であり、今のディスカウント店のような不当に安い価格ということはあり得ません。

第135号(2003.8)農民芸術の原点
信仰というものは、哲学と言ってもよいが、生き方の基本であって、最も大切なことのはずである。それを追求せずに、目に見える結果だけで物事を判断すると、大きな間違いを犯す。
祈り、耕し、芸術する、この3つをどれも欠かさなければ、とてもすばらしい生き方ができる。逆に、どれか一つが欠けても、人生はとてもつまらないものになってしまうだろう。現代日本の農家の中には、祈りや芸術が、一体どれほどあるだろうか。ほとんどなくなってしまっているようにも思える。そのような農業に、どれほどの魅力があるだろうか。農業は、生きるための手段に過ぎない。祈りこそは、生きる力の源であり、芸術は、生きていることの表現である。一人の人間が、これらをすべて備えることが求められるべきではないだろうか。そういう意味では、現代は不完全でいびつな生き方をしている人が余りにも多い。祈ることも、耕すことも、芸術することも知らず、現金を得るために自らの心と時間を命を削り、レジャーで稼いだお金と時間を費やす、そんな現代人のいかに多いことか。人間らしい真っ当な生き方とかけ離れれば離れるほど、様々な歪みが身体と精神に現われる。現代日本において、ガンや脳卒中、引きこもりや凶悪犯罪などがどんどん増えているのは、当然の成り行きである。
分業化の進んだ現代では、宗教は宗教家、農業は農家、芸術は芸術家のやるものと決めつけてしまっている。本職(プロ)に任せておけば、それが一番ということかもしれない。
信仰だけでは、人間は生きていけない。農業だけでは、生きている価値がない。芸術だけをやろうとすると、最もそれを必要としている人たちに届けられない。分業化は効率が良いが、人間は機械の部品とは違う。多少効率が劣ろうとも、一人一人が輝いて生きられる世界であってほしい。

第138号(2003.11)農業は、環境にとってプラスかマイナスか?
狩猟採取で生活できるのでない限り、農業は人類にとって必要なものであるが、それをどのような形で行うかは、エコロジーの観点で問い直されるべきであろう。しかし日本では、農業基本法以来、新農業法が制定された今も、経済効率優先の考え方は変わらず、選択的規模拡大によるコスト削減と農産物の輸入拡大が同時に推進され、農業生産の現場では大型機械によるエネルギーの多投とビニールなど石油製品の多用、農薬や化学肥料、畜産においては抗生物質など薬剤の大量使用が当たり前のことになっている。
環境とか生命を経済効率に優先するならば、無農薬有機栽培は当然のことである。生産量が多少減ることなど、問題にする方がおかしい。農家にとっては、生産過剰による価格暴落こそが、最も打撃なのだから。

自給率の極めて低い日本において、減反して農地を荒らすくらいなら、減農薬で収量を減らして農地を守った方が、よほど有意義なことは誰にでもわかる。それをさせないのは農薬関連企業の陰謀が働いているからに過ぎない。そして有機栽培では、通常の化学肥料を使った栽培よりも、平年作はやや劣るものの、冷害の年には一般栽培より打撃が少ないというようなメリットもある。有機農業は、決して不安定でリスクが大きいばかりのものではない。それは、有機農業に関する研究や、それに向いた育種などの条件が整っていないからに過ぎない。
現在、畜産とか水産の有機廃棄物の大半が、単に埋め立てとか焼却とかされてしまっていることも、もったいないというよりも、エコロジーの観点から非常に大きな問題である。有機農業を当たり前の農業にすることにより、農業だけでなく色々な環境問題が一挙に解決することになるし、労働生産力の小さい有機農法であるからこそ、失業問題や労働問題までも根本的な解決に導くことになるはずなのである。環境破壊を伴う景気浮揚策など、未来に禍根を残す政策を許してはならない。
  改めて言うまでもないことだが、農業と工業の論理は違う。農業は自然の摂理に基いて、永続的に営まれるべきものであり、工業の発展を促してきた競争原理には本来馴染まないものなのだ。外国と競争して生き残る農業を育てようという考え自体が、大きな間違いなのである。
食糧は、できる限り狭い地域において自給するべきである。その理由については、食糧安保という考え方を待つまでもなく、他国の食糧自給を破壊しないという社会倫理的な意味からも、食糧輸入が輸出国の土壌と水を奪っていることに他ならないという環境倫理的な意味からも当然なのであり、食糧自給は国家としての義務であるとも言えるだろう。
有機農業による自給を国家のよりどころにし、経済封鎖をはねのけ成功したキューバのように、より恵まれた自然条件の日本において有機農業による自給をすることは十分可能である。もちろん、そのためには、現在のような食生活ではだめである。外食産業の食べ残しや賞味期限切れで捨てられるコンビニ弁当、日本人の健康維持に向かない肉食過多の傾向などを続けていては、もちろん自給などできはしない。伝統的な米と野菜、大豆や雑穀などを中心にした日本食を取り戻し、外食や中食を減らす努力を一方でしながら、有機農業による自給運動を地方から進めて行くことが必要であろう。国の政策も転換しなければならないが、それを待っていては世の中は変わらない。まず一人一人が、主体的にそのような運動に着手すべきである。

第157号(2005.6)絶対音感と絶対平和主義
例えば、経済とか社会体制において、かつては資本主義か社会主義とどっちがいいかというようなことが論議されたものだが、現在ではそのようなことが話題にもならず、目先の利益だけで経済も社会も動く情けない世の中になってしまった。
私は、資本主義は修正してもダメであり、破棄すべきものであると考える。もちろん、お金まで否定するつもりはない。交換手段として、お金はなくてはならない。しかし、お金がお金を生むシステムは必要ないし、よいシステムではない。マネーこそが全ての基準になっている資本主義は、帝国主義以上の人間疎外を発生させているし、現代の危機的な環境破壊にも対応しきれない。有限である自然とか、人間の労働というものこそが、基準にならなければいけないし、また人道ということに最大の価値がおかれるべきだ。そのような基準に照らし、資本主義は失格である。資本主義であっても、資本家が人道的に経営をすればよいと言うかもしれないが、そんなことはあり得ない。富というものは、搾取とか貧困があってこそ存在できるものなのだ。人道的に資本を蓄積するなどということは、虚構に過ぎないのであって、資本主義は滅びるべきなのだ。

第162号(2005.11)なぜ私は自給を目指すのか! ・・・文明国日本への叛逆・・・
一言で言えば、自由に生きたいからである。無農薬有機農業を標榜しながらも、我が農園には大きなビニールハウスがあり、トラクターで畑を耕し、軽トラック、ワゴン車と自家用車も2台所有している。家の中には、電気製品があふれ、この文章もパソコンで書いている。このように石油や電気にどっぷり浸かった文明生活は、自給ということからは、程遠いものだ。便利ではあるが、もし石油が手に入らなくなり、電気が止まったら、まともな生活はできなくなる。いずれ、そのような時代が来ないとも限らない。いや、近いうちに来るに違いない。現代文明は、もうじき滅びる。いや、滅びねばならない。なぜならば、現代文明は、富ある者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなることによって成り立っているからだ。

貧しき者は、文明の恩恵に預かれない。彼らにとっては文明以前の生活の方が、自給できていた分、ずっとましだった。
現代文明は、石炭や石油という大自然が何億年もかけて作り出した過去の遺産を、たかだか100年余りで食いつぶし、人類が作り出したダイオキシンプルトニウムは、未来何万年にもわたって地球上の生命を脅かし続ける。このような刹那的で罪深い文明は、一刻も早く終わりになるべきだ。だから、私の理想は、このような文明から逃れ、車や電気がなくても豊かに暮らすことのできる、自給生活なのである。
 「大草原の小さな家」みたいに、馬で耕し、馬車で移動し、ランプで灯りをとり、薪ストーブで調理もする生活に、今でもずっと憧れている。確かに効率は劣るけれど、何よりも、人間の生物としてのスケールに合った生き方ができると思う。

このような理不尽な国に生きる私が、現在の生活を捨て、いきなり自給生活を試みようとしても、不可能である。しかし、あきらめたわけではない。それを実現するためには、自給的なコミュニティを構築する必要があるし、それこそ私がずっと夢に抱いていることである。農村のコミュニティが崩壊し、学校や病院、買い物にも車で行かなければならないような現状で、いきなり車を持つことをやめても、豊かな生活などできない。しかし、理想を共有できる仲間と共同体を作り、歩いて行ける範囲のコミュニティで、できる限りのものを自給するようにすれば、一家に一台の車を持つ必要は全くなくなる。電気も自家発電するようにすれば、原発もいらないし、そのような巨大な装置を維持するために必要な、巨大な組織や権力に従う必要もない。これからは、より少なく生産し、より少なく消費することが求められる時代になる。

第168号(2006.5)農場開放宣言! 〜「えこふぁーむ」の再生のために〜
この地に入植して早14年が過ぎた。
しかし、決して順風満帆であったわけではない。実を結ばない苦労も、たくさんして来た。経済的には、ずっと綱渡りの状態であった。いや、これからは、もっと大変なことが予想される。

農家になる夢も、オーケストラを創る夢も、思い描いた通りの姿ではないにせよ、それなりに実現させて来た。今までずっと、夢を追い続けることでしか、自分の生を確認できないようなところがあった。しかし、今その夢が思うにまかせないばかりか、農業による自立という根幹のところが、ぐらついて来ているのである。このままじゃ、ダメだということは分かっているのだが、どうすればよいのかということが、なかなか見えて来ない。農業を取り巻く環境は、ますます厳しい状況に追い込まれている。身の回りでも、競争に勝ち残れず離農する農家は、後を絶たない。そんな中で、自給的な有機農業こそ、生き残る道だと信じているのに、まだまだ自給と言うには不十分であるし、かと言って、もうかる農業もできそうにはないのである。
 「えこふぁーむ」では、農薬を使う一般栽培でも難しい果樹を、無農薬で栽培することにこだわって来た。農薬を使えば収穫できることが分かっていても、それを使ってしまえば私が農業を始めた意味を失ってしまうのだ。何もそこまで無農薬にこだわらずに、最初は低農薬でもいいじゃないかとみんなが言うのだけれど、そういうやり方では無農薬は実現しないのである。わたしは、敢えて困難な無農薬に最初から挑戦し、生態系がうまく機能して農薬を使わなくとも病気も害虫も増えないような畑になるのを、じっと待ち続けているのだ。経済と生命を天秤にかけることなどできない。心を売ってまで、生き延びたくはないのである。しかし、理想だけで生きて行くことが、できるはずのないことも分かっている。どこかで妥協はしなければいけないのだけれど、その線引きがなかなか難しい。
 いくら高い理想を掲げても、現実には労力不足、経験不足、能力不足と、ないないずくしで、なかなか思うような収穫を得られてはいないというのが、正直なところだ。

農業経営が順調で、人を雇えばどんどん収入が増えるような状況だったら、黙っていても人が集まって来るだろう。アルバイト先を求めている新規就農希望者は、いくらでもいる。でも、元より儲かりもしないがリスクだけは大きい有機農業をやっていて、自分の労賃だって出ないような状況なのだ。自給が実現できれば、お金はなくても暮らして行ける。しかし、自給が実現できるまでは、お金を稼がなくてはならない。理想と現実の折り合いを付けることが出来ずに、信念だけは曲げずにやっていたら、自給も出来ず、儲かりもしない、こんな中途半端な農業になってしまった。畑も持て余していて、土地は充分あるのに、荒れたままになっていて、活用する道が見えて来ない。
 
第169号(2006.6)オルターナティブな世界を創ろう!
現在の極端なグローバル資本主義とは正反対に、個性的でローカルな地域自給的社会がたくさん生み出されるようになって欲しいものだ。反権力、脱権威によってこそ、真に民主的で差別のない平和な社会を築くことができる。株式会社でも国営でもない企業のあり方として、ワーカーズ・コレクティブという労働者自身の手で共同経営する協同組合的な民主的なものが最近ちらほら現れているが、このようなものがもっと一般的になり、企業だけでなく、役所、学校、病院、施設、そういったものも、上からの権威によらず、利用する側が主体的に利用できるものに、作り変えていく必要がある。

スロー・フードから発して、スロー・ライフ、LOHAS(健康で持続可能なライフスタイル)というような言葉もはやってきている。しかし、ファッション的にもてはやされているような部分もあって、これをまた商売にしようというところが気になる。べらぼうに高い健康食品や、オーガニック(有機)食品を見ると、決してオルターナティブなものじゃなくて、単に金儲けの手段に使われているだけのものが、余りに多いことが分かる。有機農産物は、朝市のようなところで農家から直接買うべきもので、デパ地下のこぎれいなオーガニック・コーナーでお高くとまった見栄えのよいJAS認定有機農産物なんてものを買っても、世界をよりよい方向へ変えるなんてことはできっこないのである。
 オルターナティブな世界が緊急に必要なことは、ローマ・クラブが1972年に発表した「成長の限界」で、すでに明確になっていた。しかし、30年以上たった今も、世界の進む方向は変わっていない。相変わらず石油だのみの技術が基本であり、都市一極集中はますます進み、地球温暖化や砂漠化の進行など地球環境の悪化は止まらない。私が就農した時、「10年後には農業の時代になる」と、この通信でも豪語してみせたのに、現実はますます離農が進み、この5年間だけでみても、専業農家や懸命に農業をやってきた第1種兼業農家は3割も減少している。小泉政権が、いかに悪政を行っているかということだろう。
 やはり人間は、痛い目に合わないと、変わらないのだろうか。飽食ニッポンでは、スーパーマーケットに世界中の食材があふれ、コンビニで賞味期限切れの弁当が1日3回も廃棄される。一方、世界では何億もの人々が飢餓で苦しみ、この日本でさえリストラからホームレスになりコンビニで廃棄された弁当をごみ箱からあさって生きる人々がいる。こういう矛盾に満ちた社会で、のほほんと生きていいのだろうか?

先月号で、農業だけでは食べて行けないかもしれないなどと書いてしまったが、それは現金が稼げないという意味であって、私はどんなことがあろうと農業をやめるつもりはない。私は、一人でも多くの人に農業をやってもらいたいと思っているし、オルターナティブな世界を創るためには、農業を生活の基盤にする人を、今よりもずっと増やさなければならないのである。

第176号(2007.1) 理想社会と自給共同体〜 アナキスト石川三四郎の「土民生活」
したがって、常に競争を強いて世界を平和にしない資本主義も、社会の安定のために個人の自由を奪う共産主義も、理想を実現する手段としては、間違っている。では、第3の道はどこにあるのか。それを追求するのがアナーキズムであり、資本や独裁という権力から個人の自由を守る唯一の方法は、自給共同体という社会を作ることである。しかし現実には、アナキストによる自給共同体の試みは、多くが短期間で失敗に終わり、成功した例は極めて少ない。
 なぜ失敗するのか。私が考えるには、それは共同体を維持するために必要な3つの要素を、兼ね備えていないからである。3つのうちどれが欠けても、共同体は崩壊する。その3つとは、第1に価値観の共有(宗教あるいは哲学)、第2に共同体の維持に必要な生活の技術(特に農業技術)、第3に生きることの喜びの表現としての芸術の尊重である。特に3番目の芸術は、共同体に何の関係があるのかと思われ、ないがしろにされやすい。しかし、人間の幸福ということを考えた時に、芸術は極めて重要な要素と言える。そして、これらの要素のうち、いずれかを重視して、その他はおろそかになるということになりやすいのだが、それでは共同体はうまく行かない。宗教、農業、芸術、この3つが統一されることが必要なのである。そのためには、祈ること、耕すこと、表現することが、分業されるのではなく、一人の人間によって行われなければならない。なぜなら、人間の営みを分業化することによって、人々の心まで分断化されてしまうからである。一人一人が宗教家であり、農民であり、芸術家でなければならない。

しかし、農業を守らなければならない理由は、何も食糧を得るためだけではない。第一次産業という言葉があるように、他の産業を支える基礎となっているのであり、さらには環境を守り、地域を守り、文化を育み、心の癒しにもなるなど、経済では計れない様々な価値も多く持っている。だからこそ、食糧さえ得られれば外国からどんどん輸入するというような政策は、改めなければならない。農業が滅びれば、農民が滅びる前に、国が滅びるのである。
 現代の農家は、輸入農産物に対抗するため、際限なく規模拡大してコストを下げる農業を強いられているが、そのことが環境を破壊し、地域社会を崩壊させ、安全性に問題のある農産物を流通させている最も大きな原因になっている。それらを一気に解決する方法が、自給的農業の復活であり、石川三四郎の言うところの「土民生活」の復興なのである。

農民として生きるということは、単に農業生産に携わるということではない。大自然と神の前に従順になり、大地にしっかりと立ち、泥にまみれ汗を流して労働し、実りの時には感謝をもって収穫する。そして収穫を皆で分かち合い、喜びを表わすために歌を歌い、楽器を奏で、踊りを踊る。これこそが、人間の生き方の原点である。そのような生き方を、現代の農民は忘れている。私は、単に農業をやりたいのではなく、そのような生き方を取り戻したいのである。そのような生き方ができた時にこそ、資本主義も社会主義も存在しなくなり、自由で平等、平和な理想社会が実現するだろう。

「恋するトマト」を観て2007/6/22(金) 午後 11:21
まじめな人間が報われる、そういう世の中でなければならない。そういう思いが大地氏にも小檜山氏にも貫かれている。そういう理想主義的なところが、私にはとても共感できる。ホリエモンにしろコムスンにしろ最近の勝ち組企業の理念のなさ、そして相次ぐ企業の不祥事や偽装事件、役人の天下りや贈収賄事件など、法律に違反しなければとか、ばれなければ何でもありの世の中。何とかならないものだろうか。

「農を変えたい!全国大会」全国プレ大会in長沼 2007/8/19(日) 午後 11:53
さて、今回の集会は「農を変えたい!全国運動」という国内の有機農業関連団体を結集したネットワークと連動していたため、有機農研の会員だけでなく、全道・全国の様々な有機農業関係者が350名以上集まり、色々な人に再会することができ、また新たな出会いも多々あり、有意義な学びと交わりの時が持てた。2日間、畑を放り出して行っただけの価値は、十二分にあった。
 何よりも大きな収穫は、有機農業とはJAS法で規定されているような付加価値の高い商品を生産する特殊な農業なのではなく、農業の本来あるべき姿であり、そして「農を変えたい」という運動は、単に有機農業を推進する運動なのではなく、何よりも命を大切にするという価値観に基づくエコロジカルでサスティナブルな普遍的社会を取り戻すための「世直し」運動なのであるということを確認することができたことである。世の中は変わる、いや変わらなくてはならない、と主張する百姓が、全国でバラバラに存在しているだけでなく、ネットワークを作り、大きなうねりを起こそうとしているということに、大きく勇気づけられた。

第185号(2007.10)食品の表示偽装問題
消費者を欺くことによって利益を上げていたことは言語道断だが、まともにやっていたら利益など上がらないという状態は、何かが間違っているのであり、まともな生産者が報われるようなシステムこそを作らなくてはいけない。