サイト『神を待ちのぞむ』より

神を待ちのぞむ 
http://www.aritearu.com/index.htm

  • 未来を守る無名の戦士たち

この世界は、遥か太古から刻まれてきた人類の歴史の中に立つ、多くの無名戦士たちの魂によって支えられてきた。この無名戦士たちの多くは、その名前さえ人びとの記憶の中に留まることはない。しかし、その魂は風のようにこの地球に生きる多くの生命をあるべき道へといざなってきた。自らの欲望や快適さと引き換えに自らの根を大地から引き抜き、その魂を売り渡すことなく次の世代に生きる生命を守るために自らの欲望と闘ってきた人びと。彼らの魂は遥か遠い祖先の魂と共に生き続けている。彼らの祖先が命をかけて守り続けた生き方。大地に根をおろし感謝と祈りと喜びにあふれた世界。その世界に吹いていた風は心の自由と慈愛を携えていた。そしてそれぞれの時代において、この世界を受け継いだ感謝の想いと、次の世代に引き継がねばならない責任を感じていた。この先住民と呼ばれる人びとの無名戦士たちの魂は、太古から未来へと続く時空の聖なる輪のように廻りつづけてきた。しかし、現代文明に生きる私たちにとって、この先住民族の聖なる輪は駆逐しなければならないものだった。自らの欲望や快適さのために他の多くの生命の犠牲を求めつづけた。自らの欲望と闘うのではなく、自らの欲望のために他の生命や大地と闘い奪ってきたのである。この今の私が住んでいるこの家の木は何処から来たのだろう。この私が日々使っている物は何処から掘られたものだろう。それらのものの多くが彼ら無名の戦士たちが命をかけて守ろうとした大地からのものかもしれない。実際に私たち日本人が使っている木材の80%が外国から、それも熱帯雨林といわれる森から持ち込まれている。それはこの森に生きる人びとの生活の場のみならずその生命を奪っていること(サラワクを参照)を意味している。直接には手を出さずとも、私たち文明人は先住民族の土地とそこに生きる生命を今も奪いつづけている。細分化された産業構造の中にあって、私たちが何かを手にすることにより、何が消え何が奪われてしまったかを肌を通して実感することが出来なくなっている。まるでこれらのものが私たちの世界とは異次元の空間からもたらされたものという傲慢な幻想の上に、大量生産・大量消費の文明が成立してきた。この無関心が持つ残虐性が世界中に悲劇を産みつづけてきた。大地との絆、根っこを完全に葬り去ることによって築き上げられたこの文明。そこには先住民への虐殺や略奪、そしてその後の自己基盤の喪失による高い自殺率、アルコール中毒、貧困が残された。私たちはこれらの重い現実をどのように受け止めればいいのだろう。数少ないがこの無関心を装ってきた中に潜む残虐性を感じとった人びとがいた、ヴェイユしかり、賢治しかり、フランシスコしかり、先住民族しかり。これらの偉大な魂は無関心に潜む残虐性と戦い続けた。

このはっきりと断罪することの出来ない魔物。この魔物の正体を見つめる無しに、真の自由や慈愛など存在しない。その意味で私も彼ら先住民族の無名の戦士の魂を、自らの欲望や快適さと引き換えに売り飛ばしてきた醜い人間のひとりかもしれない。地球上に生きる多くの生命の輝きや大地を奪ってでも手に入れなければならないものとは一体何だろう。そのような文明を私たちは目指そうとしているのか。それが私たちの歩くべき道なのだろうか。この残虐な行為の上に築かれた文明が、新たな残虐性を自らの胎内から産み出し、自滅への階段を駆け降りていくのは必然の道なのかも知れない。私たちの文明がアメリカに象徴される弱肉強食の社会に向かうのか、それとも憎悪から生まれた共産主義ではなく、互いに与え合う社会を目指してゆくのだろうか。無名の戦士たちが守り続けてきた道に咲く、自由と慈愛の花たちを踏み荒してきた私たち文明人。この自らの残虐性に気づくことなしに、未来は見えないし未来への子孫への責任を全うできるはずもないだろう。この拙いホームページで紹介させていただいたインディアンや世界各地の先住民族の声が皆様の魂に、そしてこの私にも根をおろすことを願ってやみません。そしてこの未来を守ってきた無名の戦士の魂が、希望を再び私たちに取り戻してくれることを。

  • 希望ある未来とは一人一人の喜び、悲しみを共に分かち合う社会

君たちはこの世界・社会を見て今どのように感じているんだろうか。学校や家庭内でのいじめや無視、暴力や受験勉強などの荒波を君たちは必死になって戦っている。そんな現実や社会に対しての疑問を持ったとしても、そしてそれを誰かに言ったとしても、聴いてくれる人はほとんどいない。もう全てのものに希望や光が射し込まない暗闇の世界に生きていると感じているかも知れない。そして君たちはそんな世界でも必死になって立ちつづけている。今、君たちが生きている時代は人生の中でもっとも多感な時期なんだよ。だから悩んだり不安になったりするんだ。でもそんな時代だからこそ多くの世界の声を聴くことが出来ると僕は思うんだ。ただそんな余裕なんて君たちにはないかも知れない。毎日毎日が敷かれたレールの上を踏み外すことなく走ることを要求され続けている。多くの経験を通して、そのみずみずしい感覚を広げてゆくのではなく、逆に摘み取ってしまう社会になってしまっている。

  • 真の文明とは

私たち文明人と呼ばれる多くの人々は、「快適な生活」を求めて数多くの発明をし、またその恩恵に与かってきた。それが人類にとって有益なものであり、必然な道だと 信じて疑わなかった。しかし極端なまでの物質主義が横行し、持つ者と持たない者が生まれ貧富の差はこの地球上を覆った。人々は「持つ」ことに囚われ、飽くなき飽食を繰り返す。自分自身の「快適な生活」のため、どれだけ多くの動植物が地上から消え失せたか。地球は人間というガン細胞にその体を蝕まれてしまった。そしてそのガン細胞から発せられる異様な悪臭が、人間自身に降りかかってくることを理解していながら、私たち人間は飽食の宴を止めようとはしない。自分が現在生きている時代のことしか関心がないのかも知れない。アメリカ・インディアンの人たちが常に七世代先の子孫のことを考えて行動したことから比較すると、文明人というのはなんと目先のことしか考えることができない醜い生命体なのだろう。私は「快適な生活」を追い求めること自体を否定しているのではない。自分自身が物質的に豊かになればなるほど、「持つ」ことに囚われ、日々の感謝は消え、如何にして自分の財産を守ることしか脳裏に浮かばない精神的危機が蔓延し増大することを言いたいのだ。この危機を明確に意識の、そして無意識のレベルにまで悟った人間は数少ない。アメリカ・インディアンたちは本能的にこれを感じ取っていた。文明人と呼ばれる人々が彼ら先住民族に対して言ったところの「野蛮人」は、まさに文明人そのものの本質を表わす言葉であったと言えるのではないだろうか。